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癒し

 子供のころから、私には両親に甘えて過ごしたという記憶はありません。
父も母も、いつも仕事でいなかったし、たまに家にいても、そのひざは四歳下の弟が占領していました。

やがて私は結婚。一女一男の母となり、子育ての毎日。長男は無条件でかわいいと思うのに、娘に対してどこか身構えてしまうのは、娘の上に幼い日の自分自信を重ね合わせていたのかもしれません。

 平成九年の春、私は舌がんとリンパ腺転移のため、手術を受けました。
私が集中治療室から個室に移った日、母は何を思ったのか、病院の廊下で私の手をとり
「これからは、私があなたの手となり、足となるから」
と涙ぐんでいました。
 その日から、母は病院に泊まりこみ、父は病院と実家の間を、日に何回も往復するという毎日が始まりました。それまで、めったなことでは仕事を休んだことのない母が、私の手術の日にも
「十時間もの手術の間、じっと待ってるなんて耐えられない」
と仕事に出かけた母が、ずっとそばにいてくれるというのは、私にとって、ちょっとした驚きでした。
声の出ない私の横で、母は「痛いね」「痛いね」とつぶやきながら、何度も何度も私の頭をなでてくれました。それは、母の胸に抱かれているような優しい時間でした。夜中にぼんやり天井をながめていると、母は
「何を考えているの?眠りなさい。そしたら、少しでも楽になれるから」
そう言って、また頭をなでました。
父は、自分では寝返りひとつできない私の体を支え、あっちに向きを変えたり、こっちに向けたり、丸めた毛布を背中のわきに押し込んだりと大奮闘でした。
 数日がたち、流動食が始まると、その準備が父の仕事になりました。流動食の缶詰を適温にあたため、私の鼻から胃へとつながっているチューブの端に器具をつけ、点滴の要領で少しづつ落としていくのです。
たまに母や夫がそれをしようとすると父は「俺の仕事を取るな」と言わんばかりに、とたんに機嫌が悪くなりあれこれ、いちゃもんをつけました。

 筆談と簡単な手話を使って交わす両親との会話は、いつも笑いにあふれていました。
「迷惑ばかりかけて、ごめんね」
と私がいうと、父は
「おまえはまだまだ、親に迷惑がかけ足りないみたいだな」
と憎まれ口をたたきました。がんこで照れ屋で「迷惑かけていいんだよ」と言えない父の精いっぱいの思いやりです。
 私が自分で身の回りのことをできるようになるまで、狭い空間での、両親との穏やかな時は、三週間続きました。
 何から何まで、両親の手を借りながら、私は自分が赤ん坊に戻って、育て直しをしてもらっているような、幸せな気持ちでいました。若かったころの父と母は、きっとこんなふうに私を育ててくれたのだろう。ああ,私はこんなにも愛されていた。そう実感できた時間でした。ただ、父と母の髪に混じる白いものが悲しかったけれど。

 病気がわかった時、両親の前では泣くことも、弱音を吐くこともできずにいる私に夫は 「みんな、泣きたいのをこらえているんだよ」
と言いました。それがたまらなく切なかった。
 病気をしなければ、持てなかった時間。病気をしなければ、わからなかった思い。私は今、がんという病気に心から感謝しています。


 娘の小学校の卒業式の日、一時退院を許され家に戻った私は、思いっきり娘を抱きしめました。


(1998著)

注意:この作品は過去に某出版社のエッセイ集に掲載されたものです。